古代朝鮮半島との関わり合い |    恵那爺の里山歩き

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千葉県を中心に 日帰り山歩きや散歩などで撮った写真を中心に載せています。

 ここのところ小説ばかりじゃなく、歴史解説物を時々読んでいます。


今回、「文化は日本から朝鮮半島に」というような内容に思えた本に興味を持ったので読んでみた。



「日韓がタブーにする半島の歴史」

室谷克美 書     新潮新書


著者は、元新聞記者の方のようです。

学者さんより自由に書ける方ですね。


私に読み取れた範囲での内容は、読み誤りもあると思うが

抜き書きが黒、私のコメントは青にしています。



1.朝鮮半島に伝わる最古の正史である「三国史記」に

日本列島から流れてきた解脱(たれ)という賢者が長い間、新羅の国を実質取り仕切り

第四代の王に就くと、倭人を総理大臣に任命した。

 文化的後進国の人間をトップに持ってくるとは思えない。

 どうも山陰地方から渡った人のようです。


2.日本列島にも、朝鮮半島にも

倭の王に韓人が成ったとの記述がない。

なので天皇家が半島から来たという説は、根拠がない。

 先進国の人間が国のトップになるなら、それなりの記録があってもいいのでははてなマーク

朝鮮半島にいた倭人が戻ってきた可能性はあるのでしょうね。


3.新羅も百済も倭国を大国とみていた。

なぜかというと、優れた品々が多いためで、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している云々と書いてあるとのこと。

 この時代と関係ないが、江戸時代の朝鮮使節は日本に来ているが日本からは行ってないような気がします。


4.前方後円墳

日本列島では三世紀に出現

朝鮮半島では五~六世紀

 朝鮮半島の海岸近くに結構な数の前方後円墳があるようだ。

 倭人の有力部族がいた証拠



5.三世紀 朝鮮半島の刀剣 鋳鉄 

    日本列島の刀剣 鍛造品

 これが事実だとしたら、圧倒的な武力の差がある。

 鋼を作るのには、炭が最低必要それも大量に

 そのため、大量の木を伐採するからあちこちと転々と移動せざるを得ない。

 ということは、農閑期にやるってことは無理なのでおそらく職業的専門技術者集団があったのだろう。

 

 もうこの時代に職業の分業化がある程度できていた可能性がある。



6.倭国と新羅は地続きだった?

列島側と半島側にまたがる倭人の国だったのではないか。

 任那だけじゃないのかも

 半島の王族が亡命してきた原因が王族が倭人だったから抵抗なく受け入れられた。

 

7.韓族の邑長に銅印

 漢委奴国王印 金印 

 韓族の国家が未成熟だった。

 日本でも統一国家になっていなかった時代ではあるが。


8・稲の伝搬ルート

中国雲南省から東シナ海を経由九州に達する。

半島を経由していない。

(日本列島経由で、朝鮮半島に稲が渡ったようだ。)

 

この本の著者は、朝鮮の海岸線は倭国以外の倭族が支配していたのではないかと考えているようだ。


たくさんの亡命者が、日本に来ているから、今の人間が考える以上に、海族の航海術は確かなものだったのだろう


結構面白く読んだんで、ちょっと気になって任那や加羅を検索したら


「日本列島も、朝鮮半島も一つの国になっていない時代の事

元々朝鮮半島南部には春秋戦国時代に戦乱を逃れた難民と倭人が雑居し都市国家を作ってきたといわれる。
これがいわゆる任那や加羅といった半島最南部の国家郡の元となる。
朝鮮半島の南は、日系人と漢民族で現在の朝鮮民族は住んでいなかった。」


などとある。


また、日本でも縄文時代は大半が日本列島の北東側に住んでいて西の方にはあまり人が居なかったような研究もあり

大昔の事で資料などないからはっきりした事は解らない。

それゆえ想像すると結構楽しいですね。


本を読んでネットでいろいろ検索すると、びっくりするような説が有ったりしてつい嬉しくなって一人でニヤツイタリしています。



この時代に興味のある方は、この本に一度目を通してみるのも一考ではないでしょうか。